2016年5月19日木曜日

《箒木は「智恵の木」》➀

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1281~1299頁

 おわりに

 《箒木は「智恵の木」》

  『旧約聖書』「イザヤ書」第40章6-8に

 次のような詩がある。

 40:6

  声が聞える、「呼ばわれ」。

  わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。


  「人はみな草だ。

   その麗しさは、すべて野の花のようだ。

 40:7

   主の息がその上に吹けば、

   草は枯れ、花はしぼむ。

   たしかに人は草だ。

 40:8
   
   草は枯れ、花はしぼむ。

   しかし、われわれの神の言葉は

   とこしえに変ることはない」。

  この偉大な力を持っている「息」は、

 ヘブライ語で HBL(hebel) といい、

 「息、蒸気」また「風」を表わす。

 グルジア語の同類語 haeri は「空気」を表わす。

 ヘブライ語において HBL は、

 さらに「空、空虚」を表わす。

 『旧約聖書』「伝道の書」第1章2に
 
 この「空」が用いられている。

 1:2

  伝道者は言う、

  空の空、いっさいは空である。空の空


 これを漢語的に表記すると、

 「空空、一切是空、空空」となる。

 「空空」はヘブライ語で 

  HBL-HBLYM(hebel-habalim)となり、

 「虚無感」を言ったものと理解される。

 「伝道の書」は第1章1に

 1:1

  ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
 
 とあり、伝道者とはダビデの王子ソロモン王を指す。

 聖書学者は

 この書は実際にソロモン王が述べたのではなく、

 同王に託して述べられたものであるとの

 見解を共有している。

 第1章12-14は述べる。

 1:12

  伝道者であるわたしはエルサレムで、

  イスラエルの王であった。

 1:13

  わたしは心をつくし、知恵を用いて、

  天が下に行われるすべてのことを尋ね、

  また調べた。

  これは神が、人の子らに与えて、

  ほねおらせられる苦しい仕事である。

 1:14

  わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、

  みな空であって風を捕えるようである。


 同書の第1章から第4章まで

 いろいろな自然現象や人間の行い、また

 王の努力苦労などを述べているが、

 それらを「空であって風を捕えるようである」と、

 それらが空しいことを弁明している。

 これは「イザヤ書」の「草は枯れ、花はしぼむ」

 に対応する。

 第1章は上記の

 「空の空、いっさいは空である。空の空」に続いて、

 次のように詩われる「伝道の書」第1章(3-9)。

 1:3

  日の下で人が労するすべての労苦は、

  その身になんの益があるか。

 1:4

  世は去り、世はきたる。

  しかし地は永遠に変らない。

 1:5

  日はいで、日は没し、

  その出た所に急ぎ行く。

 1:6

  風は南に吹き、また転じて、北に向かい、

  めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。

 1:7

  川はみな、海に流れ入る、

  しかし海は満ちることがない。

  川はその出てきた所にまた帰って行く。

 1:8

  すべての事は人をうみ疲れさせる、

  人はこれを言いつくすことができない。

  目は見ることに飽きることがなく、

  耳は聞くことに満足することがない。

 1:9

  先にあったことは、また後にもある、

  先になされた事は、また後にもなされる。

  日の下には新しいものはない。

 「しかし、地は永遠に変わらない」は、

 前記の「イザヤ書」40章の

 「しかし、われわれの神の言葉は

  とこしえに変わることはない」に対応する。

 「人はみな草で」、「草は枯れ、花はしぼむ」が

 「地は永遠に変わらない」ように

 「神(の言葉)はとこしえ(永遠)に変わることはない」

 のである。

 つまり、人のなせる業は「空空」であるが、

 神は有り続けるもの「有る者」にして

 「有りて有る者」であると言っている。

  「有る者」「有りて有る者」を漢語的に表記すると

 前者は「有」、後者は「有有」となるが、

 本書の第16章の

 「志摩のダンダラボーシと天白社」で述べたように

 「如」あるいは「如如」とする方が的確である。

 「空空」と「如如」は

 仏教の経典にも使われている用語である。

  「空空」はサンスクリット語で

 śūnyatā-śūnyata といい、

 大乗仏教の端緒となった

 般若経の「空(śūnya:本義は零)」の説に始まり、

 大空経(中部122経)、中阿含経(巻49)に表れ、

 「空という観察それ自体空である」というのが

 その論旨である。

 鳩摩羅什が漢訳した「中論」の「空亦複空」が

 それを表わしている。

 空海の詩文をまとめた「精霊集(巻第7)」には

 「戯論を空空に滅し、寂静を如如に証せむ」と、

 「空空」と「如如」とが

 対極にあるものとして用いられている。

 その「如如」は「智度論2」に

 「如如法性実際世界故無、第一義故有」とあり、

 「大乗義章3」には

 「如如ト云フハ、是前正智所契ノ理ナリ、

  諸法體ハ同ジ、故ニ名ヲ如トナス、

  一如中ニ就イテ、體ハ法界ノ恒沙仏法ヲ備エル、

  法ニ随ッテ如ヲ弁ズレバ、

  如ノ義ハ一ニ非ラズ、彼此皆如ナリ、

  故ニ如如ト曰フ」とある。

 恒沙とは恒河(ガンジス河)の砂の数をいい、

 物の極めて数の多い比喩で

 仏典にはよく使われている慣用句である。

 體(てい)とは「かたち、ありさま」である。

 「如」はサンスクリット語で tathā といい、

 「存在のあるがまま」を意味する。

 同語は漢語仏典に

 「法界、実相、真如、如実、如如」と訳されている。

 tathā-tathā は漢訳され「如是如是」となっていて、

 「如如」に相当する。 

 これらは、全ての存在の法(性)の

 真実(あるがままのすがた)を言っている用語である。

 「往生要集(大文第4 正修念仏)」は

 「色は即ち空なり、故に これを真如実相といふ」

 といい、「真如」と「如如」は同義とされ、

 「大乗仏教」においては

 「空」を強く主張する。

 これに対し、

 『旧約聖書』は

 「如如(有有)」を強く主張し、

 そこに神性を求めている。

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